佐藤 達也
SATO TATSUYA
初めまして、 佐藤達也です。
ご訪問頂きまして誠にありがとうございます。
このサイトは、私がさとう歯科医院を創業し、
多くの幸運の集大成として、
30年を越えることができた、
その体験からの学びを共有していただけたらと思い、
開設させて頂きました。
私は幼少期からの漠然とした
社会への違和感を感じながら、
病と共に過ごしてきました。
大学生時代に始まる病や交通事故で、
幾度も生死の境をさまよった体験から得た境地、
『何のために自分は生かされているのか?』
という問いは、
後年出会った偉人の書籍・禅・修験道のような
勉強会の中に答えを見つけてきました。
誰もが親しむ道ではなく、
志す者が稀な世界への道を、
ずっと目指してきたことに気づかされました。
結婚式の披露宴でよく聞かれる祝辞
『上り坂・下り坂・まさか』
のまさかに対応することができなければ、
組織は崩壊してしまいます。
昨今の事例で言えば
『デフレ対応型からインフレ対応型』に
ギアチェンジできない企業が
倒産しているように思われます。
単なる目先の利益追求が目的では、
長期間の繫栄を享受することは出来ないのです。
もし、ご共感いただける節が少しでもあり、
みなさまのお役に立てる可能性を
少しでも感じていただけますと、
幸いに、そして嬉しく思います。
なぜなら、今まで生かされてきた中で受け続けた恩を、
次の世代の方々に『恩送り』することが
私の在り方であるからです。
経歴
高校入学を機にラグビーを始める。以後23年間継続。そのほとんどを3番右プロップという、ラグビーにおいて最も過酷なポジションで出場。
人生観の基盤をその頃に確立する。1981年東京都立国立高等学校卒業。3年生の夏に同級生が、初めて都立高校として甲子園出場を果たす。
その応援に、地方大会から甲子園まで行く体験を通して、運命と必然について考えるようになる。
1988年東京医科歯科大学歯学部卒業。
卒業後はラグビー部のご縁から、大山喬史教授
(のちに東京医科歯科大学歯学部 病院長、学長、退官後は鶴見大学 学長を歴任)の研究室に入局し、
同大学歯科研修医として口腔外科・歯内療法学・矯正歯科・顎補綴学を学び、1990年修了。
その後、障害者歯科学講座・顎口腔機能治療部において、
教授診療のチームリーダーとして、難易度の高い義歯や著名人・芸能人の審美歯科治療を担当。
1992年6月、東京大田区にて開業。特に「入れ歯治療」や「審美歯科」では、遠方より新幹線や飛行機で来院される方も多い。
2004年近隣に歯科医院を拡大移転。2022年これまでの体験と実践をまとめて、
歯科の本を出版。『40歳からが分かれ道 超高齢化時代の歯科治療』
2023年に自由診療専門の完全プライベート診療室をOPEN。
1962年
1965年
1966年
1968年
1969年
1970年
1972年
1978年
1980年
1982年
1987年
1988年
1988〜1990年
1990〜1992年
1992年6月
2004年8月
2010年以降
2012年以降
2018年以降
2022年
2023年
福島県白河市で誕生。
3歳頃からの記憶があふれるようにあり、
大学卒業ぐらいまで他の人もそうなんだと思っていた。
小児喘息発症。青少年期の人格形成に深い影響を与えた。
小学校1,2年生で『3馬鹿トリオ』と呼ばれ毎日いたずらし放題。
後から思うと「人と違って何が悪い!」という問いが常にあった。
小学校2年生の時から一人で喘息専門病院まで通院するようになる。
発作が出ても学校を休むことは許されず、
「喘息で死ぬことはない!」と母親に言われていた。
電信柱1つ進んだらそこにつかまって、息を整えながら次の前進をしていた。
後から思えば、目標設定のトレーニングをしていたことになる。
快活な転校生と親しくなり、内向的な性格から外に出てスポーツに参加するようになる。
教科書に載っていない日本史の史実をクラスでただ一人答えたことから、
周囲の目が180度変わることを体感。(3馬鹿から、秀才)
学力テスト学年1位や志望校合格率80%から一転、高校入試は第3志望まで不合格。
天国と地獄を見た思いだった。
アニメ『宇宙戦艦ヤマト』のセリフ
「勝つ者がいれば負けるものもいるんだ勝利か、、、クソでもくらえ!」に大いに共感した。
目標だった春季ラグビー関東大会に出場できず、大いに落ち込む。
目標は高く設定しないとその足元にも及ばなくなると実感。
同年夏、野球部が都立高校史上初の夏の甲子園大会に出場。奇跡は起こせると知る。
東京医科歯科大学歯学部入学。高校入試の時とは違って、根拠もなく受かると感じた。必然。
年4回あるラグビー部の合宿中と秋の公式戦期間に重い喘息発作が頻発し、
寝ない・食べない・ステロイドホルモン漬けの中で全出場を続け、
後から思えば命がけの荒行の6年間を過ごす。
ラグビー部で移動中、同乗していた車がダンプトラックと正面衝突で全損。
幸運に恵まれ、4人全員が生還できた。生かされている意味を考え始める。
東京医科歯科大学歯学部卒業
卒業後、学生時代にお世話になったラグビー部OB会長の大山教授の研究室に入局。
後から思えば、この方でなければ私は宮仕えは出来なかったであろう。
やりたいことは全てやらせていただいた。教授の患者様だけではなく、
ご家族の診療まで全てお任せいただき、それは現在でも続いている。
東京医科歯科大学歯学部研修医
(口腔外科・歯内療法学・矯正歯科・顎補綴学をマスター)
教授診療のチームリーダーとして、殆ど全ての患者様の診療を担当させていただき、難易度の高い義歯や著名人・芸能人の審美歯科治療を行う。
この頃から喘息は発症せず。
さとう歯科医院開設。(大学病院は非常勤)
近隣に歯科医院を拡大移転し、
治療技術だけではなくマーケティングなど経営の勉強が必要であることを痛感。
経営のセミナー受講を本格的に開始。
東北大震災やリーマンショックなどの経営危機を乗り越える。
日本発新資本主義経営の思想(十方良し)に賛同して、
古来日本由来の経営手法各種セミナーを受講。
己の壁を乗り越えるため、4年連続して修験道的なセミナーに参加。
コロナ危機や自身の2度の病気入院を乗り越える。
これまでの体験と実践をまとめて、歯科の本を出版。
(40歳からが分かれ道 超高齢化時代の歯科治療)
自由診療専門の完全プライベート診療室をOPEN。
所属団体
▪️日本おもと協会
幼少期より植物を愛好。
大学卒業を機に『最後にたどり着く園芸・万年青』の本格的培養を開始。
羅紗万年青の発掘の分野で高名な、榊原八朗氏、安達常一氏に薫陶を受け、展示会での入賞歴多数、特に羅紗万年青の新品種の発掘普及に尽力。
昭和の時代には、誰もが新居や新社屋には万年青を飾ってその門出を祝い、繁栄を願うという当たり前の行事が、
令和の時代には建築業界でさえ知らぬ人もいるという現実を何とかしたいという思いです。
引越し万年青(おもと):
おもと(万年青)は、めでたい植物、不老長寿の縁起のよい植物といわれています。
慶長11年、徳川家康公が各大名に江戸城の普請役を行なわせ、その造成成るとともに入城しました。
入城に際し家康は、愛知県三河の国長沢村の長島長兵衛から贈られた、斑入りのおもと3鉢を抱え入城しおもとを、
床の間に飾り徳川300年の繁栄を築いた、という古事が広く知られています。
この先例に倣って新築・進学・結婚・出産などの祝い事に万年青を贈るという習慣が広まったのは、戦後の高度成長期でありました。
▪️日本占術協会
教授患者様の中村友美先生(当時の日本占術協会常務理事、加藤大岳先生門下)に14年間東洋占術についての指導を受け、
姓名学と気学において奧傳免許證をいただき、周易上級コースを受講。中村先生主催の中庸運命學會の理事に推挙される。
恩師の中村先生と福田有宵先生(日本占術協会の前会長)の推薦で日本占術協会に入会。
31年を超える歯科医院の経営を通して得た実業に即した易占は、
エリート若手コンサルタントの経営指導が、腹落ちしないという、創業社長からの相談が多い。
▪️パッションリーダーズ
近藤 太香巳代表の講演を聞き、その生きざまと会の理念に共感して入会。